昭和四十八年六月六日 御理解第七十節
「人間は万物の霊長であるから万物を観て道理に合う信心をせねばならない。」
金光様の信心ほど道理に合うた信心はないと思うです。これはもうどの宗教を云うてもどんなに考えても道理の合わないと云うことが教えの中にあると云うことです。これは仏教だってキリスト教だってどんなに考えても道理に合わない。
例えば金光教の信心やら昨日の御理解頂くと、和賀心と云うものさえ追求し求めさえ行けばおかげになると云う行き方でしょうが。 ところが、他の宗教はそうじゃないですよね。第一酒を呑んではいけないとか、妻帯をしてはいけないとか、肉食をとってはいけないとか、例えばそういう仏教、キリスト教の五戎十戎といった様な厳しい御教えと云う様なものはどんなに考えても人間は万物の霊長であるから万物を観て道理に合う信心と云うことにならん。
もう、もう云うならば自由気ままなるべしと云った様に、例えば動物の生活を見ればいい訳なんです。自然に生きてそして自然に滅びて行くと云う、天地から出でて天地へ帰って行くその過程と云うものが実に神乍らなのです。
教祖はそこのところをですね、もう素晴らしくいろんな場合に表現しておられます。
女の出産の御教えなんか頂きますと、もう本当にもしそれこそ、口の悪い人が聞いたらまるこそ犬や猫やらであるごとと云うて反感を感じる程しの御教えですよねえ。あれは 生まれたら母親の乳をすぐ飲ませと云った様なことは・・・もう産んだらすぐ平日の通りだと言っておられます。
もうこういう風にいわば教えてありますが、もう成程人間がさせて頂く信心だという感じです。いわゆる道理に合う信心であります。
まあだ道理に合わないということは他の宗教に見るならもう沢山指摘するところがあります。
ところが教祖の場合は、そういうところがもう、成程成程と合点がいく様な天地の道理に即応した生き方を教えておられます。ところが事実はそれは難しいことでございますけれどもね。
又、道理に合うた信心を頂いておるのにも拘らず、道理に合うた信心をまたは生活をお互いがしてないところにです、私共のこれからの信心をかけてゆかなければならない。出来るだけそれに近づかせて貰い出来ないところはお詫びをしていくと云った様な生き方。
先日テレビで東京の動物園のゴリラの飼育をしおる人が話しておりましたが、もうああいう動物は絶対虫歯という事にならないそうですねえ。自然に生きて居る時は・・・ところが、一度動物園に入れられますと人間が考えた食べ物を食べさせたり、又は檻外から子供達がキャラメルをやったりチョコレートをやったりするでしょう、だから必ず虫歯が出来るそうです。
ですから、この自然に即応して生きると云う生き方を、だから云うなら虫歯が出来たと云うならです、本当に道理に合う生き方をしてないからだと云う思いがいるです。
ですから成程教祖様は、道理に合う信心、それこそもうあらゆる宗教で説きえてなかった事を説いておられるといった様な意味の事をいつも申しますが、そういう教えを説いておられてもです、私共がそれを頂けなかったら、又それに向かって精進しなかったら霊長の値打はない。
それに向かっていわゆる改めて行く生き方、そういう生活がなされていかなければならない。改められていくと云うこと。
その改められていくと云うことをです、日々御理解を頂いて、御理解が血になり肉になりしていく様に思うと云うときが、だからそれに向かって段々進んで行きよる時。
昨日合楽の田中さんがお届けされて、もう本当に私はお取次させて頂きながら本当によかとこ通りよるのと云うてから申しました。 初めの間は、云うならば子供の時からおばあちゃんに連れられて善導寺の教会によく参拝した。金光様は有難かと只観念的に感じて居るだけであった。どうと云うことのない、云うなら信心であった。
その事を神様は畳の上をはわくにしても箒が畳の上についとらん。只箒を持ってこうこうしよるだけ。只参りよるだけ、拝みよるだけと云う様な感じだった。
それが一度椛目の時代御神縁を頂かせて貰うて、本当に信心ちゃ、成程それだから有難いんだなと分かったのは合楽の場合、いわゆる当時の椛目でも同じですけれども、この神様は病気避けや災難避けのの神でない、心直しの神だと仰ることが、成程そうだと分かってきた。いわゆる御理解が分かってきた。身に付いたのじゃない。だからお話を聞くと有難いと云うことが分かってきた。
ところが先生、ここ二、三日と云うものはです、毎朝毎朝の御理解をです、もう一口でも本気で行じさせて頂くと云うこと、守らせて頂くと云うことがこんなにも有難い事か、こんなにも血に肉になるとはこんな事かと云うことが分かってきた。だからもう合楽の殆どの人がです、云うならば親先生が言いなさるのはいつも改まれ研けばあっかりじゃから、もう一辺聞いときゃとかと云うごたる風なものが合楽全体の人達の中に有るのです。
もう親先生は口を開きなさりゃ改まれ研けと云うことばかり、云うなら心直しのことばあっかりじゃから、一辺そこんところを把握しときゃと云った様な感じでここ五、六年間を過ごされたと云う。
もうほんなここ最近教えというものがこんなに血に肉になると云うことが有難いと云うこと。
もう田中さん信心のいわば歩みとこう云うがね、信心が育って行く、進んで行くその具合いと云うものが何とも言えんのと云うて私自身感心しました。
もう合楽に通うて来てですね、ここんところが分からなきゃ値打はないです。成程合楽の場合、私がここで私が二十数年間説いてきておる教典と云うものはもう今迄かつて人が説いたことなんかない。もう前人未踏と申しますか、まあだ行った事がない、辿った事がない程しにたったこれだけです、教典この百八十何ケ条からの御教えですけれども、これがもう深く広く説かれると云う点に於てはもう今迄私共見たことも聞いたこともなかったです。
だから私自身がここで説きながら本当に素晴らしい素晴らしいと思うて頂きよる。いわゆる田中さんじゃないけれども、只素晴らしい素晴らしいと聞いとるだけ、それを本当に自分の身に頂いて力にも又は血にも肉にもしていく事に楽しみが出来てきた。これはもう大変な事だと昨日私は思いました。
皆さんもひとつ朝参りでもなさる方は何ですけれども、又朝参りしよったばってん今頃止めたと云う様な人達はもう絶対いくら親先生の話を聞いたっちゃ研け改まれと云う事じゃけとしか言わんです。でなかったら、もちっと御教えを頂くことに意欲的にならなければいかんです。
今朝から私は御神前でこれは恥ずかしい事ですから私だけのことにしておこうと思ったんですが、頂いたから聞いて頂くのですが、御神前に出たらこういう字を頂いた。
「大坪 総一郎」と大と云う字はこんなに、坪と云う字は坪、土辺に一がない、十だけ。総と云う字は糸辺に公と云う字はもっと小さかった。小さく小さく書いちゃる。そして心だけが大きい。
一と云う字は普通の一と云う字の半分しかない。郎と云う字だけがまあ当り前と云う感じ。
この大坪総一郎と云う字は、これはもう姓名学から云うたら、もう最高のことだそうです。北野の秋山さんが、もう十何年も前だったでしょう、「合楽の先生の名前はどげな名前ですか」と云うて、云うなら姓名学の大家と自分でも思っておられる程しの方から聞かれて、大坪総一郎と云いなさると教えた。そしてそれを観たところが、それはそれはもうとに角ね、この人の運勢が開けない筈がない。が、この人の名前はね、もう子にも孫にもずーっと伝わって行く運勢だと、この大坪総一郎というのは・・・・
高橋さんがその事を後で書いた物を頂いて行っておられますが、ちょっと覚えませんけれどもね。そういう意味の事が兎に角大坪総一郎と云う字はそういう素晴らしいおかげの頂けれる名前だと、姓名学から云うても・・
ところが、そんならこうやってすら字になったんではおかげになりません。云うなら私の生き方が今日の御理解頂くと、万物の霊長だから万物を観て道理に合う信心と云うものがこの様にまだまだ足りんのである。欠けておるのであってまだ小さいのだと云うこと。 けれどもこの郎と云う字、これだけは一人前頂いとる。信心は出来んけれどもおかげは受けておると云う意味なんです。
これは只御理解では大坪総一郎と云うのは大きい、全てを一つに集めると云う御理解でした。私が頂いておる御理解は・・大きい坪にですね、全てを一つに集める。この郎と云う字は集めると云うこと。と、云う程しの云うならば御理解。
けれどもそんなら実際は坪と云う字もです、いわゆるここで肝心要と言われるところの土の信心がまだ欠けとると云うこと。
大きな信心大きな信心と云うてです、言いよるけれども実際は公の事を切実に願っておるようであるけれども、まあだ小さい小さい、もっともっと豊に大きくならなければいけないと。
一と云う字は私が日本一とよく申しましょうが、日本一を目指すと云う様な事を申しましょう、それがまあだ半分と云うこと。
只そういう風にどれもこれも欠けたものばっかりだけれども、おかげだけは一人前頂いておると云うこと。本当に信心も出来んのにおかげを頂いて。
さあそこで皆さんがです、そんなら皆さん自身がね、そんなら欠けておるものだらけである事を、先ず知りなさらなければならない。そしてそれを万物を観て道理に合う信心に合わせて行くことの精進をなさらなければいけん。
夕べ壮年部会でした。昨日はもう本当に遅くなりました。一時半位だったでしょうか。もう次から次ともう立たれんとです、みんなが。
そんならこれでもう皆さんお帰り下さいと云うても皆んなが帰らん。立たん。そして結局一時過ぎだったでしょうか。その後に秋永先生達が昨日は夫婦で夫婦で来とりましたが、夫婦で又残ってお願いをされた。それは云うなら大きな願いなのです。あの人達にとってはちっと過ぎる位な大きな願いなのです。
それで皆さん方を送りだしてから又、私はここへ出てその事をお願いさせて貰いよりましたら、御心眼にね、丁度映画なんかでもよく見ます情景ですけれども、若い女の人をこわきに抱えておる、例えばさろうて行くと云う訳である。又守っておると云う訳である。そして多くの捕り手から逃れて行こうとしておる訳である。
ところが持っておる刀がです、鞘のまま持っておる。まだ抜かないで、そしてそのこれだったら迫られて来た時にです、もう折角そのこわきに抱えておる女の人がいくら連れて行きたいと思うても、もう下ろしていかん訳にはいかんのですよね、方一方の手じゃぬがれんもんじゃから、
だから私はすぐ思った。そういう例えばそんなら我欲とまではいかんけれども、分に過ぎた願いもする時にはしてはならんじゃない、するがええ。けれども、そんならそれにふさわしいと云うか、それに適当な真剣な信心をしなければいけない。真剣をいわゆる抜いとらん訳です。まあだ鞘のままだと云う訳です。
例えばそういう大変な願いを持っておるのであるからこの位な信心はさせて貰わにゃと真剣に、もう願うときまっしょうで帰ったんじゃいけんと云うことです。
皆さんも推量が出来るでしょう。私が頂いた事から私はそんな風に感じた。
願っておる事はほんに分に過ぎた願いをしておるならです、そんならこれを無事に何処何処へ連れて行きたいと思うならです、それこそ真剣を抜いで掛かって来るものを切り払うていかなければです、出来ることじゃない。それを鞘の侭こうやっとる。だから抜く為にはこれを置かなければいけん。
だから大きな願いをさせて貰うならば、それはもう自分としては我欲かも知れんと云う願いをお互いがする。せにゃおられん事がある、実を云うたらいくらでも・・・
御無理でございますけれどもと、云った様な願いをしなけりゃおられん様なことがある。そんならそん時にはです、それだけの姿勢を作らなきゃ駄目だと云うこと。
そして自分の信心の足りないこと、云うなら今日の御理解で云うと万物の霊長だから万物を観て自分の改めていかなければならないところを大いに改めていかなければいけないと云うことなんです。 昨日はもう本当に有難い、石井喜代司さんにどうかね、昨年よりも今年、先月よりも今月と云う風に自分の心が開けて行く。その開けて行くところだけを今日一つお話しなさいと云うて私は申しました。そしたらまあ本当にそれは何とも言えんお話をしました。もう今迄のですね、何かこう一生懸命参ってからそれでもおかげ頂ききらんで馬鹿んごたる風な言い方をして、事実自分はおかげを受けて居るから、そういう言い方に聞こえよったんですけれども、昨日は自分の信心の至らないという事をもう真から感じたと。
最近思う事は自分の兄弟達がみんなおかげを頂いておる。ところが一番おかげを頂いておらんのは自分であると云うことが分かって、何かもう寂しゅうて寂しゅうてたまらんごとなってきた。だから、いわゆる本当の実感を話しておる訳です。
そこで今迄の様な考え方ではいけないけれどもです、これは後から済んでしもうてからなんですけれども、今日は皆さんに告白しますと云うて話すんです。
今日のお話は素晴らしかったと云う。久富先生なんかとてもああた天才と云わっしゃるけん私が申しました。「そげな事はあんたが言うこつじゃなかばい。あんたが天才てんなんてん、ここで私だけしか言えないのだ。もう何もかも知ってる。だからあんた達が天才てんなんてん言うこつじゃない。なあ、喜代司さん」と云うて話したことでした。
だからこの人のはね、天才と気違いは紙一重と云うが気違いの方ですよ。天才と馬鹿は紙一重と云うならこの人は馬鹿の方ですよ。 だからその馬鹿になるからおかげだけは受けるという。だからもう、一重こちらがです、いわゆる同じ気違いであっても気が違うて神様の方へ向かって違うていくと云う気違いなら笹をかたげて歩く気違いではないと云う生き方にならせて頂くところを紙一重のところを私はこの人にたんびに言わせて頂いておるところが分かった時が、この人が本当の天才と思う位な信心を頂く時じゃろうと云うて話したことでした。
だからその後に喜代司さんが告白しておったのは、実はもう今日は壮年部会で行かんにゃばってん、こげん寂しかったり心が暗かったりもうしるうしかった。これでは行ったっちゃお話も出来んと思うて、そうにや思い悩んだ。
それから桜井先生の所へ電話を掛けた。ところが桜井先生がお留守で奥さんが出られた。そして自分の心の状態を話させて頂いたら、石井さん今日の御理解はこういう御理解でしたよと云うて、昨日の和賀心をもう断片的ではあるけれども、自分がひかえてあるところをずーっともう長々と話された。
もうそれを聞いた途端に自分の心が明るうなって今日のお話が出来たんだと。だから自分のものとして話そうと思ったけれども、実際は桜井先生の奥さんから聞かせて頂いた昨日の朝の御理解を聞かせて貰うて、ああそうだったと思った事がです、又素晴らしいです。この人の信心の素晴らしさはここんにきです。
親方がおりますけれども、ある事情で家におりません。ですから結局あの沢山な兄弟達を嫁入らかしたり嫁御を貰うたり、いわゆる親同然でしなければならん。勿論親もみなければならない。そういう立場にあったからその時分に私が思うたことはです、自分は例えば、奴隷の様に働いてよいから兄弟達が立ち行くことをいつも考えておった。
もう自分などげんなったっちゃよいけん、兄弟達にはよい家を持たせたい、よい家内を持たせたい。又よい嫁を貰ってやりたい。もう自分はどげんなってもよいからと云うので真剣にそれを思うた。ここ辺がです、例えばおかげを受ける元と私は申します様に、親の前に犠牲になると云う心が非常に強いと云うことです。他人の前に犠牲になると云う心が非常に強い。
自分はもう油だらけで汚れでいっぱいで仕事しよる。弟達はもう何処の紳士じゃろうかと云うごとこしらえて、儲るとは親方よりかうーんと分のよい、今度も何百万と云うて儲る様な仕事をしたのは弟の清之助さんだったそうです。そげんとがいかな喜代司さんも寂しゅうしてたまらじゃった。自分だけが貧乏くじ引いとる様な気持ちでたまらなかった。
ところが桜井先生の奥さんのお話を電話で聞きよるうちに、はあー何十年前に自分が一生懸命思うたことはこるじゃなかったかと思い付いたと云うのです。
自分がどんなに犠牲になって兄弟達がこんなにもおかげ頂いていきよるけん、実を云うたら和賀心でお礼を申し上げねばならないことであったと気が付いたら心が晴れたと。そして今日皆さんが褒めて下さるようなお話が出来たと云うのです。ここ辺が素晴らしいですね。本当にそういう儀性的な精神が非常に旺盛。
だからそんならここでは、今教会を中心とした願いが出来たらです、本当に天才的な信心と云うことが言えるでしょう。
ところがここのところをもう一歩踏み込んで来ればいいけれど、そこんところを分かろうとしないし、分からないし、いや自分のつが本当のように思うておるところにまあだ馬鹿か気違いかと云うことになるのです。あの人の信心は、いわゆる片思い的な信心なんです。
成程馬鹿になっていくけんおかげは受けても、それでもやはりそんなら昨日も話しております様に自分達が貧乏くじを引いとるような寂しい思いにかられる様なこともあることは間違いない。
私はそれを本当に感じました。だから皆さんでもこうやって朝の御理解を生で頂くと云うことと、テープで聞くと云うことは格段な違いが有るでしょうが。
一生懸命私を見つめてお話を聞いておられる。それがそんなら膝を突き合わせる様にして聞いてご覧、もっと素晴らしい。
そんならテープでもです、もっともっと効果的な頂方と、云うならば今云う様に他は見えん位にここをこう見つめてこうして聞いてご覧なさい。本当に素晴らしいと私は昨日思うた。
そういう行き方も段々身につけさせて頂ながら自分の欠けておるところをひとところでも、例えば私には大坪総一郎のこの全部の中から私が気付かねばならん事を教えて頂いたですけれども、それをまっとうにしておくところの精進、それがわたしは万物を観て道理に合うた信心と云うことではないかと思うのです。
金光教の信心ほど道理に合うた信心はない。これはもう絶対にないです。
それは私共は他の宗教は知りませんけれども、一通りは書物を読んでおるから、ははあどういう信心だなと云うことが分かる。
教えはまるきりよく似たと云った教えは沢山有る。けれども肝心要のところになって参ります時に、人間としては難しいと云うか人間として受けるにはちっとおかしいと思うところが出てくるです、必ず・・・・
ところが教祖の御教えをこの教典を二十何年頂続けてきましたがです、そういうところがみじんも感じられないのです。教祖の御教えは・・・・だからそういう素晴らしい信心を頂いておってもです、そんなら道理に合う信心を目指していかなかったら同じだと云うことになるですね。 どうぞ。